せめてもう、
帰ってこないとは言わないで
020:過ぎ去っていく影を夕闇に見送った、夏のある日
葛は不意のそれの訪いに気付いた。ざわめく小波が喧騒となり怒号や暴力沙汰、銃声さえも聞こえるこの大陸にいながら、葛の耳は時折詰めものでもしたかのように静寂に埋まった。葛の構成物が欠けてしまったかのように虚ろなそれに葛はすぐに思い当たった。幼馴染を葛は近くに亡くした。西尾と言ったか。真っ当とは言えぬ位置に身多く者同士として名前と言う情報は塵ほどの価値もない。その下の名前さえ葛はもう思い出せなくて、それなのに時折こうした喪失に寂寥を覚えた。
負担になっているのかとかえりみる。体調や戦闘に影響するようでは困る。穏やかに落ち付ける心算で思考に耽る。好きだったか? 嫌いではなかった、子供のころからともに遊び回って。でも今の俺とあいつの隔たりは超えようもなくまた超えたり克服したりする気もない、何故? 葛の思考はいつもそこで止まる。仲が良かった。だから組織からのあらゆる放逐を覚悟で、彼の情人や情報を集め回る独断に走った。結実はせず西尾は死んだ。それだけだった。そしてそれは葛にさえ適応される事態でもある。
「かーずらー。どーした。ここ、シワよってるぞ。とれなくなるぞ」
がだごどとけたたましく一人掛けの椅子を引きずってきた葵は、帳面を乗せた机に付いている葛の差し向かいへ腰を落ち着ける。
屈託ない葵の顔がきょろりと肉桂の双眸を向けてくる。一筋だけぴんと跳ねるように長い睫毛や中性的な顔立ち。端正であり、その性質のように眉筋が頑固に凛と線を引く。額が見えるほど短く切った神はうなじも刈りあげてあってすっきりとした皮膚が見える。俯けば頸骨の並びが見えるほど白く、葵が案外日に焼けない白い皮膚の持ち主であることを知る。その白さは葛がよく言われるような白皙と言うよりはもっと生き生きとしたものだ。けして白皙ではない。よく見れば健康的な色艶に焼けているのに葵のうなじや首筋は驚くほど官能的に息づいた。あり得ない白さが発光のように目を惹いた。開かれたシャツの襟が立てられて灰白の影を葵の頬へ落とす。釦で留めたその奥に続く肉体を想ってしまう。葵の肢体は見た目通り、柔軟性や敏捷性に富み、機転もきく。戦闘において力押しが苦手な葵の特殊能力が念動力であるのは皮肉かもしれない。
「貴様には関係ない」
「またまたー。そんなこと言ってェ。今夜のオレのことでも考えたんだろ、このむっつりスケベ」
「貴様を奈落の底へ置き去りにしたいな」
葛の辛辣な反応に葵がうぅ、と唸って軽口を閉じた。葵自身口が滑る悪癖を知っているから引き際もなんとか見極めている。葛は留めていた手を動かす。白い帳面の上を洋墨がさらさらと漢字を綴る。時折混じる流線体はアルファベットで、名前が横文字のものも顧客の割合をある程度は占めた。よく食事を届けてくれる少女の店も名前が横文字の連中が増えたと言っていた。その余波がこんな辺鄙な写真館にも及んでいる。
「…夏がいい」
言った途端にじとりと絡みつくような湿気と汐と熱に葛はペンを置いた。よく見れば葵は平素よりも釦を一つほど多く開けて風通しを良くしている。葵は興味深げに目線を投げてよこしたが、ひらひらと手扇で風を送ってシャツの前を開いているだけだ。一定量を超えた熱さは人の動きを緩慢にさせ、出かける意欲をそぐ。客商売にはあがったりだが本業のある身の上としてはそうとも限らない。
「考えこんでるのって、それ」
葵はしなやかな腕を動かした。脇で挟むように背もたれに体を乗せ、返した手首を椅子の背に引っ掛ける。その手の上に尖った頤を乗せて興味深げに葛を見ている。
葛はペン先を反古紙で拭いながら帳面が乾くのを待った。洋墨の壜の蓋を閉めて少しの作業をすれば帳面の洋墨はすぐに乾く。この土地は汐を含んだ風を吹かせるくせに空気はすぐに乾いて砂塵を噴き上げた。結果としてべたついた潮だけが残り、そのざらつきはどこか皮膚へべったりと絡みついた。
「夏のような、男だ」
「なんだそりゃ。情熱的ってこと?」
葛はもともと葵と感情を共有するつもりはない。発散の心算の発言であるから葵の返事は何でもよい。作業が済んだところで身を乗り出した葵が葛の唇を奪った。机や椅子をけたたましく鳴らしながら葵が葛を床の上へ押し倒す。葛は動揺もしない。少し汗のにじんだ葵の皮膚はしっとりと葛の皮膚に吸いついた。
「かずら、おれのこと、だいて」
体勢はすぐさま反転した。葛は葵の細い手頸を掴んで床へ抑えつける。開かれた襟から舌を潜らせ、唇や歯で食みながら釦を外していく。戦闘訓練を受けていない脆弱な葵の体があらわになる。
「誰か来たらどうする」
眼隠しと遮光を兼ねた硝子戸を見る葛に葵は笑った。
「お楽しみ中ですってお帰り願うさ」
葵がにゃあと猫のように嗤う。猫は油断ならないと思う。にっこり笑ってあっさり捨てる。三年の恩を三日で忘れるはさすがに脚色だろうが、そういうある種の潔さのようなものがあって、葵にはそれがあるように葛は思った。葵はきっと葛などいなくても生きて行けて、先に進めて、新しいものに躊躇しない。そう考えるたびに葛の胸は黒く重いものが腹へ堕ちていく。吐きだしたいほど蝕むそれに葛は何度も便所へ駆け込んだ。それでも治らない。消えない。
葵は一人でも大丈夫。
でも葛は一人でも大丈夫?
葛の手が葵の体を執拗に這った。それはどこか、存在を確かめるようにすがるようなものだった。細い首や続く肩甲骨、脊椎を撫でて胸郭の広がりを感じ、骨の守りのない腹を下りていく。葵も抵抗しない。自ら服を脱いだ。ベルトや下着ごと放られたそれが、かしゃりと金属音を立てて床へ堕ちた。
「訊きたいことがある」
葛の唐突な問いにも葵は嫌な顔もしない。小首を傾げて何だと促す。対人の処世術に長けた葵はたいていのことは悶着なく済ませる技術がある。
「大切な人を、失くす、という、事は――…」
口にしたところで栓ないことに気付いて葛の言葉は切れた。葵が亡くした人も葛が亡くした人も、性別も位置も違えど大切な人で、今二人に出来るのはせいぜいが傷の舐めあいなのだ。傷を舐める暇があるならば包帯を巻いてしまう。葛はそういう性質だ。
「なんでもない」
「何でもないって顔じゃ、ないんだけどな」
葵の指が葛の頬に触れる。体温が融けるように葵の指が融けていく。葛の方が体温が高いのだ。性的な興奮で葛の四肢は末端までもが火照りを帯びている。
葵は愉しげに笑う。葛が触れてくるところが熱すぎて融けちゃいそう。その言葉に葛は幻影を見る。もし互いに融合できたならば、互いの欠損を補えるのではないだろうか?葵は独断専行は常で始末書も多い。葛は慎重に行動することと自身の能力を嫌って能力に対する関心や重要度も低い。足したらちょうどいいのにね、は笑い事では済まされない。
「オレなんかには、言えないのかな」
葵の表情はどこまでも真摯だ。それでいて困ったような駄々をこねる子供の我儘のように理不尽とを備えている。葵はほにゃりと笑う。包み込むような、それでいて抱擁を欲しがる顔だ。
「いなくなろうとする人をとめちゃいけないんじゃないかな」
それは葛の進退さえ暗示させる言葉だった。同時に葵さえも含まれる。独断専行が専売特許の葵は頻繁に組織から警告を受けている。
「その人のさ、行きたいところに行かせてやりたいんだ、オレ。オレのそばなんかじゃなくていい。オレはお前のそばはオレが一番だなんて驕るつもりはないから」
眇められた肉桂が潤んで栗色の涙を流す。葛は黙ってそれを見た。それはいつか幼い日に、しつけの厳しかった祖母からの直接的な叱責を受ける際にも似た緊張感だった。何かしなくてはならないのに何をしても好転せず、何もせずとも悪化していくばかりの蟻地獄。白く乾いた砂に埋もれる幻想を葛は見たような気がして眼を瞬かせた。
「葛、葛、葛…――葛はさ」
「オレがいなくても大丈夫だよ」
葛の喉が引き攣った。叫びが意識する前に溢れていく。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
葛の中で葵と言う男は。軽薄で。独断専行ばかりして。迷惑ばかりかけられて。後始末を手伝ったことだって二度や三度ではない。それなのに葵がいないこれからが葛には見えなかった。もともと葛に先など見えていない。軍属において必要なのは命令の遂行とその成功率であり、大局的な見識は葛なんかよりずっと上層部のすることだった。だから葛はどうしたらいいか判らない。大局を見る限り葵の能力は役には立つだろう。必要、なのだ。なのに。
「葛はね、オレに甘えてる。オレがいるから葛の本当が出て来れない。だからオレはいない方がいいんだよ」
それでも二人は寝食を共にしなければならない。彼等の配置を決めるのはもっとずっと上層部で隠密部で、だから二人は障りがあっても二人でやっていくしかないのだ。
「葛はオレがいないことに慣れなくちゃだめだ。簡単だよ、今までそうだったろう。出会うまでのことを思い出して。オレ達は知らない同士だったじゃないか」
葛は覆いかぶさっていた葵の上から退いた。傷一つない葵の胸部や腹部はあらわになっている。それはこれからの葵のように。
「…――出来ない…――」
泣きだしそうな葛の声の震えに葵の手がそっと、葛の腕に触れた。そのまま膝をつかせて抱き寄せる。脊椎を撫でるようにコツコツとした突起を数えるように撫でていく。葵は静かに言い募る。平素の立場の逆転さえも不快ではない。葛はただ受け入れ難いだけなのだ。
「葛、これだけでいいよ。これだけでいいから、考えておいて。覚悟しておいて」
「オレはいつか去っていくよ」
大型の車両が上げる白い砂煙りが硝子戸をバチバチと打ちならす。それさえもくぐりぬけた砂塵は砂時計のそれのようにさらさらと玄関口をざらつかせた。がらがらとした人足の車輪にけたたましく排気音を鳴らす車両。砕かれ丸みを帯びた白砂はさらさらと流れて隙間から入り込む。
いつも通りの、夏だった
《了》